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第1169章
2024/06/07

三尺三寸箸から利他の心を学ぶ

三尺三寸箸のお話し

小さい頃、凄く長い箸で食事をするという昔話を、何かの時に聞きました。元となる話はあとで書くとして、私の記憶ではこんな話でした。

同じ食事が出ているのに、ガリガリに痩せている餓鬼たちと、ふくよかで肌がツヤツヤの人たちがいる。

みな長い箸を持っていて、遠くに食事が出てくるため、その箸を使って食べ物をつまむ。でも、箸が余りに長いため、どのように食べ物をつまんでも口まで届かない。

餓鬼たちの食事の時間、争うように餓鬼たちは食べ物に群がり、われ先に食べようとする。でも、食べ物を口に持っていくことができず、そのうち食事の時間が終わり、餓鬼たちは腹を空かせたまま次の食事を待つことになります。

一方、ふくよかな人たちの食事。お箸で食べ物をつまむところまでは同じなのですが、彼らは自分でつまんだ食べ物を他の人に食べさせます。お皿の上の食べ物はあっという間にお腹の中。お腹いっぱいで満足した人たちは、ゆるりと食後の時を楽しみます。

このことから、仲間と分け合うところで生きていくと幸せになれるんだなって思いました。

最近になってふとその話を思い出して調べたところ、「三尺三寸箸」という仏教の法話だったことが分かりました(とあるチェーン店の名前って多分そこから来てるんでしょうね)。餓鬼がいたのは地獄で、ふくよかな人たちがいたのは天国(極楽)だったんですね。

極楽と地獄の差

改めて読んでみて、なぜ極楽と地獄でこのような差がでたのかなと考えてみました。

まず考えたのは、天国の人たちには知恵があったんだな、ということ。自分で食べられないなら、お互いに食べさせあえば良いのではないか。そのような知恵を働かせた結果、利他の行動、すなわち、つまんだものを相手の口に持っていくというやり方を編み出したのだろうなと思いました。

でもふと、地獄にいる餓鬼にも、それぐらいの知恵はなかったのかと疑問に思いました。餓鬼にもいろいろいるはずです。何も考えずに食べようとする者もいれば、どうにか食べられないかと知恵を絞る者もいるはずです。

もしかしたら、どこかで知恵のある餓鬼が現れて、周りに提案をしたことはあったのではないでしょうか。「自分で取ったものを他の人にあげるようにすれば、みんな食べられるんじゃないか」と。

おお。それはいい考えだ、ということで、餓鬼たちは実践しはじめたでしょう。それまで高く箸を上げて上手く口に落とす、というやり方でしか食べられなかった食べ物が、いとも簡単に食べられるようになり、みな大はしゃぎしたことでしょう。

しかし、そのうちに、あちこちで諍いが始まります。自分は美味しいものをあげたのになぜお前はまずいものしかくれないのか。自分は大きいものをあげたのになぜ小さいものしかくれないのか。もうお前にはあげない!こちらこそ願い下げだ!・・・。

そんな会話が繰り広げられ、与えあう人たちがだんだん減っていった。そして、最後には誰も他の人を信じることができなくなり、誰もが自分の箸で食べることしか考えなくなった・・・そんなことがあり、結果として、他の者に分け与えようとする餓鬼は一人もいなくなったのではと想像しました。

自分のが小さいとか美味しくないといったことは、きっと極楽でも起こっていたでしょう。それなのに、極楽の人たちは他人に与え続けます。この違いはなんでしょうか。

それは、利他の心があったかどうか、つまり、思いが相手にあるか/自分にあるか、見返りを期待するか/期待しないかだと私は思います。

利他の知恵、私欲の知恵

知恵のある餓鬼のアイデアは秀逸で、みな賛同するのですが、あくまで自分に利があること、与えたもの以上の見返りがあることを前提としてみなが行動しています。そのため、他人に利があることに不満を持ち、表面的には他人のために動いてはいますが、自分が1番多くを得られないことに怒りを覚えます。

そして、期待する見返りが思ったより少ないと、相手に感謝するどころか、なぜそれだけしかないのかと怒り出してしまいます。

一方、極楽の人たちは、利他の心を持ちあわせています。自分がつまんだ食べ物を美味しそうに食べている人をみると幸せになり、良いことをしたなあと嬉しくなり、もっとしようと思います。

また、他の人が食べ物を口まで運んでくれること自体に感謝をし、自分のためにわざわざ時間と労力を割いてくれてありがとうと、幸せな気持ちが胸に広がります。

更に、お互いに感謝の気持ちを伝えることで、お互いが相手にまた何かしてあげたいと思いますし、それをみた周りの人も、自分もそういう関係になりたいなと思って真似をしはじめます。そうして極楽では、幸せの連鎖が続いているのではないかと思うわけです。

利他の心が幸せを生む

この話、理解しているようで、実は誤解している人が案外多い気がします。

どの様な誤解かというと、一言でいえば、相手から見返り(利)が欲しいから相手に何か(利)をすれば良いんだよね、と解釈することです。

もっとも、ビジネスにおいては、むしろこの考え方が大事です。ビジネスが営利を目的とする以上、取引先は自社に利のないことを行ってはくれません。自社が利を得ようとするなら取引先を利することからはじめる。それがビジネスの鉄則です。

ただ、家族や友達、社内、知人などの間で、自己利益を優先するとうまくいきません。先ほどの餓鬼のように、そのうち喧嘩になり、仲違いをし、関係性が壊れてしまいかねません。

もちろん、他人に対して完全な利他の心を持つことは難しいでしょう。親兄弟に対してでも時に難しく、もしかしたら子供に対する親の気持ちくらいしか完全な利他の心はないのかも知れません。

それでも、近い心を持つことはできます。ただただ家族のために、友達のために、仲間のためにと思い、見返りなどなくても何かをしてあげたくなる気持ちってありますよね。それこそが利他の心であり、その心に触れた相手もまた、利他の心で接してくれたりします。感謝の気持ちが更なる感謝を生むという利他の好サイクルができあがり、人生を彩りのあるものにしてくれます。

なんで自分が損をしてまで相手に利を与えないといけないの?と思って生きてきて、でもなかなかうまくいかないなぁと思っている方がもしこのコラムをお読みになっていたら、一度、損得勘定を脇に置いてみて、利他の心で周りに接してみてください。きっと必ず、どこかのタイミングで物事がうまく回り始める日が来ると思います。

筆者 田中 祐介
コンサルタント実績
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